2011年04月17日

シリウスの暦とヘリアカルライジング

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ナイルの洪水が始まる日は日の出前にシリウスが昇った。
シリウスは全天でもっとも明るい星である。
いまは青白いが、古代の文書には「赤」と書かれているのが不思議だ。
本当にアルデバランのような赤い星だったのか、
それとも「明るい」を「赤い」といったのか、そのあたりがわからない。

エジプトで暦が生まれた頃
シリウスはナイルの洪水を予測する位置にあった。
なにしろまる1年ズレる古代の暦を
現代の暦に換算するのは無理と思うので
いまは現代の暦を使わせていただくと
シリウスは5月〜6月は昼間に空にあるので見えない。
そのシリウス不在のときを過ぎると
ヘリアカルライジングがやってくる。
それは消えていたシリウスが再び姿をあらわす日で
日の出直前に、太陽を導くようにしてシリウスが昇るのだ。
それは夏至のころだったという。
そして、その日からナイルの洪水がはじまった。

古代エジプト人はヘリアカルライジングを観測していたので
1年365日で閏年のない暦だと
毎年ヘリアカルライジングがズレていくことも知っていた。
シリウスを基準にすると、エジプトの計算では
ヘリアカルライジングの元旦を迎えてから
次のヘリアカルライジングの元旦を迎えるまでに1460年かかる。
つまり1460年でまる1年の誤差が生じるのだ。
(実際は1507年のようなのだが)

100年くらいで滅びてしまう王朝ならば
そこまで暦がズレることもないが
エジプト文明はあまりにも長かったので
太陽神ラーからもらった暦はあまりにもズレまくった。

そこで、古代エジプトでは内緒の暦があり
4年に一度はこっそり閏年をもうけていたのだ。
それは農業用の暦で、種を撒く時期などもこれで決めた。
そりゃあそうです。
洪水の水が引いておらず、畑は水浸しのときに
ラーの暦が「収穫せよ」と命じても無理ですからね。


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2011年04月10日

3つの季節プラス5日

koyomi2-eji.jpg

エジプトの季節は3つに分けられた。
アヘト=ナイルの氾濫期
ペレト=水が引いて畑をつくり種を撒く時期
シュム=収穫の時期
この3つの季節はそれぞれ4つの月を持ち
4つの月はそれぞれ30の日を持った。
30日×4月×3季節で360日
この360日に5人の神さまの誕生日の5日を加えた
365日がエジプトの1年だった。
この暦は神から与えられたものとされた。

太陽暦とはいいつつも
1月という概念は月の満ち欠けからきたものだろう。
月の満ち欠けの周期は29.27日から29.83日だ。
で、1月を30日としておいて1年12ヶ月で360日。
5000年も昔ならばこれでも十分な気もしないでもない。
わずか1000年前の日本の暦でさえ
年内に立春が来てしまうような事態もあったわけなのだ。
(年のうちに 春は来にけり ひととせを
 去年とやいはむ今年とやいはむ 在原元方)

しかし古代エジプト人はここに5日を加えた。
その5日を加えた理由というのが面白いので
長くなるがざっと書いておく。

地の神と天の女神は兄妹でもあり仲の良い夫婦でもあったが
あまりに仲良くて離れようとしない、
つまり天地が分離しない。
そこで怒った父親の大気の神がふたりを引き離し
ここに天地は分離するのだが
すでに天の女神は妊娠していた。
太陽神ラーは1年360日でこの世を支配していたが
天地の分離が遅れたことに腹を立てていたラーは
360日どの日も出産禁止にしてしまった。
それを気の毒に思った知恵の神トトが360日以外の日を作るべく
時の支配者である月のもとへ行き勝負を挑んで勝った挙げ句、
どの月にも属さない5日を勝ち取ったのだという。
この5日のおかげで
オシリス、ハロエリス、セツ、イシス、ネフティスという
エジプト神話の重要な神々が生まれた。

しかし、1年365日でも本当は足りなかった。
4年に一度の閏日が必要だった。
そのことは古代エジプトの人々も観測が進めば当然わかっていたのだが
しかしラーに遠慮したのか怒りを恐れたのか閏日を用いなかった。

閏年のない暦はどうなるかというと
1500年もするとまるまる1年ズレてしまう。
しかし、短命な古代エジプト人の寿命からすると
一生で起こるズレは数日だったので目くじら立てるほどのことは
なかったのかもしれない。
しかし、ラーが与えてくれた暦の他に
閏年のある暦もこっそり使っていたらしい。


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2011年04月03日

ふるさとにチカラを










Voice:大川泰樹

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エジプトの暦のはじまり

koyomi-eji.jpg


エジプトの暦は毎年起こるナイルの洪水からはじまる。
ナイルは世界最長の川で、その全長は
在ウガンダ日本大使館のHPによると6695kmだ。
ただそのHPにはナイルのはじまりがビクトリア湖になっている。
実際にはビクトリア湖の先にも川が存在し(ルヴィロンザ川)
その川の源流がナイルの源流といえる。
ビクトリア湖から下流の国を数えても
ウガンダ、スーダン、エチオピア、エジプトの四カ国を流れ
地中海に注ぐのだ。

ナイルの氾濫はエチオピア高原に降った豪雨が
青ナイルを流れ下るからだといわれている。
洪水は上流から超えた土を運んでくるし
土の塩分を洗い流してくれる。
乾燥地帯で作物をつくるために水をやると
土のなかの塩分が水に溶けて毛細管現象で表面に蓄積する。
塩分の蓄積した土壌は砂漠よりも不毛な土地になるのだが
エジプトでは都合良く毎年洪水が起こって塩を洗い流し
おかげでナイルデルタは古代から世界有数の穀倉地帯だった。
これも洪水のおかげである。

ナイルの洪水は毎年同じ時期に起こる。突発的な洪水はなかった。
しかし洪水は洪水なので恵みももたらしたが被害もあった。
ところが洪水の当事者であるエジプトで雨が降るわけではなく
洪水の元は1000km以上も向こうにある。
種子島の先で降った雨が東京で洪水を起こすようなものだ。
いまここで降っていれば大雨洪水警報を発令して避難もできるが
種子島で降った雨なぞ誰が知るかというときに
ナイルは水かさを増していくのだ。
それも長距離を流れるせいで雨から1ヶ月以上の時差がある。
ナイルの恩恵は欲しいが被害は食い止めたい。
それにはまず洪水の予測である。

日の出のときの太陽の位置や星の動きで
1年というものがわかってきた頃に
雨も降らないのに毎年同じ時期に洪水になることにも
誰かが気づいたに違いない。
春夏秋冬のないエジプトでは季節は3つに分けられた。
ナイルの氾濫の時期、種を撒く時期、収穫の月の3つである。
洪水を予測し、季節を正確に区分したい、
そんなことからエジプトの暦ははじまった。
それが遅くとも紀元前3000年のころだったそうだ。
(Wall Street Journalでは紀元前4241年としている)
当時の暦は太陽暦で1年は365日で閏年はなかった。
そして、洪水のはじまる日が1年のはじまり、元旦になった。


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2011年03月27日

プトレマイオス三世、書物を騙し取る

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アレクサンドリアの図書館は
プトレマイオス朝の歴代のファラオの手厚い保護を受け
70万の図書を収集していたと伝えられている。
世界最古の紙もまだ発明されておらず
印刷技術など夢にも見たことがないという時代の書物は貴重で
これを収集するにはさまざまな手段が必要だった。

まず、金を払って買い集める。これは正当である。
次に強奪する方法がある。
アレクサンドリアの港では寄航した船の積み荷を検査し、
書物があれば図書館に所蔵する価値があるかどうかを検討する。
所蔵が決まればその書物の写本(複製)をつくり
原本をいただいて写本を持ち主に戻すという方法をとった。
写本と共に賠償金も支払ったようなので
「強奪」とは言えないかもしれないが
それにしても強引なことではあった。

さて、その頃のアテネの図書館には
アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスという
古代ギリシャの三大悲劇詩人の自筆原稿があった。
門外不出の貴重品として所蔵していたのだが
プトレマイオスはそれがどうしても欲しかったので一計を案じた。
「保証金を預けますから写本をつくる間だけ貸してもらえませんか」
保証金はあまりに莫大だったので
アテネの図書館はコロッと騙されて貸してしまった。
これが間違いのもとだったのだ。
プトレマイオス三世は詩人らの自筆原稿を我がものとし
写本をアテネの図書館に差し出した。
保証金ももちろんアテネ図書館のものになったが
そこまでしても欲しがっていたことを見抜けなかった
アテネの負けである。

この人類史上最大の図書館が失われたのは
後世の戦争による火災や略奪だといわれているが
復興不可能なほどの壊滅的な打撃は紀元4世紀以降の
キリスト教による破壊だった。
キリスト教の暴徒によってアレクサンドリア図書館のみならず
神殿や記念碑は度重なる攻撃を受けた。
415年には図書館に向かう館長のヒパティアを襲い
教会に連れ込み裸にして、
牡蛎の貝殻で生きたまま彼女の肉を剥いで殺してしまった。
この無惨な殺人を目の当たりにした学者は
次々とアレクサンドリアを去り
数世紀にわたる学問の殿堂は建物も書物も人も消えてしまった。


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2011年03月20日

プトレマイオス三世

Berenike_II_.jpg
*写真はプトレマイオス三世の妻ベレニケ二世


プトレマイオス朝の三代め、プトレマイオス三世も賢王だった。
プトレマイオス朝はこの王のときに全盛期を迎えたといえる。
即位した年(BC246年)にシリアに嫁いでいた姉妹を殺され
その報復でシリアを攻め(第三次シリア戦争)、
首都アンティオキアを占領。
その勢いで20km余り先の交易都市セレウキアになだれ込みひと稼ぎした。
(つまり略奪をした)
まあ、これはシリアが悪い成り行きのようだ。
第二次シリア戦争が終結して和睦のしるしに嫁にやったプトレマイオスの
姉ちゃんだか妹だかは殺されてしまったのだし。
しかし、殺したのはシリア王ではない。王の前妻だ。
前妻は後妻ともども王も殺してしまった。
よほど離婚に恨みを持っていた…というよりも権力争いだ。

さて、プトレマイオス三世の歴史に残る戦争といえばまあこのくらいだ。
アレキサンドリアの大灯台は父の代に完成している。
図書館には名だたる学者と文化人が集まっている。
その図書館の館長は地球の大きさをはじめて測ったエラトステネスだ。
プトレマイオス一世が持ち込んだヘレニズム文化は
エジプト文化とほどよく融合しているし
妻のベレニケ二世は美しい髪でも有名だが、賢い妃でもあったらしい。
何も言うことはない。
幸せな三代め、それがプトレマイオス三世だ。

プトレマイオス三世のたったひとつの禍根は息子がアホだったことだ。
息子のプトレマイオス四世は大酒飲みの放蕩もので
狡賢い家来の言うことばかりきいた。本当に困った奴だった。


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2011年03月13日

プトレマイオスの二代めときたら

p2.jpg


さて、プトレマイオス朝のファラオ二代めは
プトレマイオス二世である(当然だが)
この人はプトレマイオス一世の次男だったが
長男がエジプトから追放されたために後継者になった。
(追放された長男はマケドニア国王になったがやがて滅亡)

プトレマイオス二世は賢い人だったらしく
領土を拡大したし中央集権国家を築いたし
交易ルートは確保したし、
学者や文人を招聘して文化面の功績も大きい。

しかし、もうひとつの功績もあって
血族結婚の先例もプトレマイオスがつくっているのだ。
エジプト人の王朝は確かに血族結婚が多かったが
ギリシャ人にその伝統はなかった。
ところがプトレマイオス二世は出戻りのお姉ちゃんと結婚してしまった。
もともとプトレマイオス二世にはアルシノエという妃がいたのだが
これを追い出してお姉ちゃんと結婚して
このお姉ちゃんの妃がアルシノエ二世という。

アルシノエ二世は賢い人だったらしく
プトレマイオス二世の共同統治者として貢献したと伝えられ
死語は神殿に祀られているのだが
プトレマイオス朝の血族結婚の歴史は
まさにここからスタートしてしまったのだった。



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2011年03月06日

そもプトレマイオスのはじまりは

800px-Map-alexander-empire.png
*上はアレキサンダー大王の版図

プトレマイオスはエジプトのファラオの名として知られている。
プトレマイオス王朝は紀元前306年から276年も続いたし
プトレマイオスと名前のついたファラオは十五世までいる。
ちなみにプトレマイオス十五世は
あのクレオパトラとシーザー(ユリウス・カエサル)の息子だ。

ところでそのプトレマイオスだが
プトレマイオスを語るとなると
やはりプトレマイオス一世からはじめなければならない。
プトレマイオス一世はファラオになる前は
かのアレキサンダー大王(マケドニア)の将軍だった。
アレキサンダー大王はマケドニアの王さまで
ギリシャに覇を唱えたかと思うと小アジア(いまのトルコのあたり)を攻め
シリアとフェニキアを蹴散らしてエジプトに侵入、
これを征服したかと思うと、ペルシャに侵攻し
勢いあまってインドまで攻め入っている。
東のチンギス・ハーン、西のアレキサンダー大王というくらい
その版図は広い。

マケドニアという国はもともとギリシャ人が住んでいたので
アレキサンダー大王もプトレマイオス将軍もギリシャ人だ。
そのアレキサンダー大王がエジプトを征服したときのファラオは
ペルシャ人だったが、どうやら過酷な統治をしていたらしい。
アレキサンダー大王は解放者として人気を博し
メリアメン・セテプエンラーというややこしい名前のファラオになった。

さて、アレキサンダー大王はインドから戻ったと思うや
高熱を発して亡くなってしまう。
その遺言は「最強のものが帝国の継承者」という
いかにも争いの種になりそうなもので、
残された将軍たちは会議を開いたり争ったりしながら
領土を切り取っていった。
そのとき、プトレマイオスが獲得したのがエジプトだったので
ここにプトレマイオス朝初代ファラオとしての
プトレマイオス一世が誕生する。紀元前305年のことだった。
プトレマイオス一世はマケドニアに移送中の
アレキサンダー大王の遺体を強奪し、ミイラにして
エジプトの首都アレキサンドリアに埋葬してしまったが、
そんなに大王が好きだったのか?
共に学んだ「学友」でもあったらしいのだが。

さて、プトレマイオス一世はエジプトの公用語をギリシャ語とし
ヘレニズム文化を導入した。
アレキサンドリアは大都市となり、
世界七不思議のひとつでもある大灯台の建設もはじまった。
なによりも人類史上最大の図書館ができた。

プトレマイオス一世はアレキサンダー大王の伝記も執筆しているが
アレキサンドリア図書館焼失の際に失われている。

プトレマイオスはざっと初代だけでもこれだけの説明がいる。
たいへん面倒なことだ。
なかなか三世までたどりつけないぞ。



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2011年03月05日

現在の中国馬

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狭い日本でも在来馬は8種いるというのだから
中国の馬はどれほどの種類がいるのか想像もつかないが
まず有名な4種を挙げると次のようになるらしい。

モンゴル馬(モンゴル地方)
 体高120〜135センチ、300kg前後
 ガッシリ、幅広、短足、寒さに強い

哈萨克馬(カザフ馬、ウイグル地方)
 武帝が名付けた西極馬がこの馬
 
河曲馬(青海地方)
 体高135~140センチ 350kg〜400kg
 細い顔、スマート、胸が広くたくましい、穏やかな性格で持久力あり

山丹馬(甘粛地方)
 もっぱら荷運びに従事していた品種で、体格ががっしりして背中が水平。
 毛が長く、高山の氷点下の寒さに適応する。

なお、汗血馬の原産地は現在のトルクメニスタンのアハル州で、
汗血馬はアハル・テケと呼ばれている。
いま世界でも3000頭余りしかおらず
そのうち2000頭がトルクメニスタンで飼育されている。
スピードと持久力を兼ね備えた黄金の馬である。
金属的な光沢を持つ毛並みは美しく、
馬術競技の飛越のフォームの優美さもよく知られている。
なお、性格は頑固であり扱いにくく、ひとりの人間にのみ懐くといわれている。
タグ:赤兎馬
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2011年02月26日

その頃の馬

uma0008-024.jpg


前漢の武帝が大苑の血汗馬を求めたころ大陸にはどんな馬がいたのだろうか。

まずモンゴル馬である。
モンゴル馬はずんぐりしている。銅が太くて短い。首も短い。
顔が大きい。
しかし見かけと違って賢いというし、タフで勇敢だった。
モンゴルの騎馬遊牧民にとっては家族同様であり
移動手段としても戦いの相棒としてもなくてはならないパートナーだった。
ジンギスカンが乗ったのもこの馬だ。

そのモンゴル馬を羨んだのが漢の武帝だった。
匈奴と戦って勝てないのは馬の違いではないか…
どうやらそんなことを考えたらしい。
その当時の中国の馬がどんなだったかわからないが
日本の在来馬がどうやってもたらされたかについてのある説によると
小型馬が中国の四川、雲南、華南あたりから沖縄を経由して九州へ
中型馬はモンゴルから朝鮮半島を経由してということになっている。
これからすると、どうやら中国馬はモンゴル馬より貧弱だったようなのだ。

さて、大陸一の名馬を産する大苑の北の西には鳥孫(うそん)という国があった。
鳥孫も騎馬民族の国で、ここから武帝に贈られた馬も
たくましく駿足の名馬であったので、武帝は喜んで鳥孫の馬を天馬と呼んだ。

その後、武帝は大苑から汗血馬を得、これを天馬にして
鳥孫の馬は(位を下げて)西極馬と呼ぶようになったという。



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タグ:汗血馬
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2011年02月12日

武帝と馬

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武帝は紀元前二世紀の人で前漢の七代めの皇帝だが
この人は匈奴を攻めるために遥か西の大月氏のもとへ同盟の使者を派遣した。
同盟は失敗に終ったが
それまでよく知られていなかった大陸の西の情勢が
これによってあきらかになる。
大月氏の国はいまでいうサマルカンドのあたりであって
東西交易の拠点でもあった。

さて、武帝の使者張騫は100人あまりの外交使節団を率いて西へ向かったが
あっっという間に匈奴に捕えられ10年の歳月を送る(匈奴の妻まで娶っている)
10年めにやっと脱出し、大苑国(いまのフェルガナ盆地)に至り
大苑の世話を受けながらキルギスを抜けて大月氏国へたどりついたのだった。

大月氏との同盟はならなかったが、使者の張騫は13年めに帰国すると
耳寄りな情報を武帝に伝えた。
「大苑では汗血馬という名馬を産す」という情報だった。

武帝は天馬の子孫と伝えられる汗血馬を欲し
たくさんの黄金と金でつくった馬を使者とともに大苑に送ったが、
よもやここまで武帝が攻めて来るまいとみくびった大苑の王によって
使者は殺されてしまった。
ここにきて武帝は怒り、大苑討伐に乗り出した。
104年の第一次大苑討伐隊は敗退し、ますます怒った武帝によって
102年、第二次大討伐隊が送られる。
第二次討伐隊はよく戦い、城を取り囲み水源を絶ちさらに外城を壊して
敵の勇将を捕虜にした。
ことここに至って、大苑の城の内部では貴族たちが王を殺し
その首と汗血馬を差し出した。

汗血馬は背が高く、首と足がすらりと長く美しかった。しかも駿足で、
これを手に入れることは当時としては戦闘機を手に入れるのと同じだった。
武帝はこうして手に入れた汗血馬を「天馬」として喜び
やがて血汗馬は権力の象徴にもなっていった。



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2011年01月24日

縄文式鍋ものの中身

flame6_L.jpg


世界最古の土器だという日本の縄文式土器の時代に
当時の人々がなにを食べていたのかを考えてみる。

ヨーロッパに較べると多彩な肉類はなかったと思われる。
トナカイのように群れで移動する獣もいない。
鹿はいる。猪もいる。うまく仕留められれば熊もいる。
秋になれば森ではドングリを拾える。クルミ、栗、栃の実。
それから山芋にキノコに山ゴボウ。
野菜は我々の考える野菜ではなくアクの強い山菜だが
食料にはなる。
七草粥に入れるようなものはすべて食べていただろう。

川や海では魚と貝。海草もある。
海岸線近くの貝塚ではハマグリや牡蠣などの貝殻に混じって
鯛やスズキの骨も発見される。クジラやイルカの骨も一緒に。

これだけ多彩な食物があると
現代人でも鍋料理をつくりたくなる。
縄文の遺跡からは木の実を粉にして猪や鹿の肉と油を練り込んだものが
炭化した状態で見つかっている。
ここで想像するのは、肉と魚と貝にドングリの団子入りの縄文鍋だ。
ひとつひとつの材料は少なくてもかまわない。
土器によって複数の食材を同時に煮炊きできるということは
一種類では足りない食材を集めて
豊かな量の食べ物を作ることができることなのだから。

そして、その最古の鍋ものからはじめてのスープが生まれたはずだ。



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タグ:スープ
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2011年01月17日

はじめてのスープ




はじめてのスープ

人類が火を使うようになったのはいつの頃か。
この問いにまだ確かな答えはない。
現在発見されている痕跡としてはアフリカのものがいちばん古く
南アフリカのスワルトクランス洞窟では
160万年前の「火の痕跡」があるのだという。
この時代は洪積世と呼ばれ、ホモ・エレクトスと呼ばれる人類がいた。

火は闇と照らし、また野獣を遠ざける役割もあったが
同時に「調理」にも使うことができた。
しかしこの時代にはまだ土器がない。
調理といっても単に肉を炙ったり、
何かの葉にくるんで蒸し焼きにする程度だったと思われる。

土器の発明は2万~1万8千年前だといわれる。
それは最終氷河期の終わり頃で、最初の土器は東アジアで生まれ
日本列島では1万6千年ほど前から土器作りがはじまったとされる。

土器の発明によって、
人は異なる食べ物を同時に煮炊きできるようになった。
たとえば単純に考えて、ここに肉と栗と野菜があったとする。
火があって土器がなければ、肉は肉で焼き、栗は栗で焼く。
野菜は焼くことに適していないので生で食べるしかない。
当時の野菜はアクも強く、おそらく生で食べるのはしんどかったと思う。
しかし土器があれば、肉も木の実も野菜も一緒に煮ることができる。
煮ることによってアクも抜けるし柔らかくもなる。
1万6千年前の日本でいえば、縄文式鍋ものがはじまったわけなのだ。

その汁を飲むこと、つまりスープはここから始まったと思われる。
縄文式鍋ものの中身

世界最古の土器だという日本の縄文式土器の時代に
当時の人々がなにを食べていたのかを考えてみる。

ヨーロッパに較べると多彩な肉類はなかったと思われる。
トナカイのように群れで移動する獣もいない。
鹿はいる。猪もいる。うまく仕留められれば熊もいる。
秋になれば森ではドングリを拾える。クルミ、栗、栃の実。
それから山芋にキノコに山ゴボウ。
野菜は我々の考える野菜ではなくアクの強い山菜だが
食料にはなる。
七草粥に入れるようなものはすべて食べていただろう。

川や海では魚と貝。海草もある。
海岸線近くの貝塚ではハマグリや牡蠣などの貝殻に混じって
鯛やスズキの骨も発見される。クジラやイルカの骨も一緒に。

これだけ多彩な食物があると
現代人でも鍋料理をつくりたくなる。
縄文の遺跡からは木の実を粉にして猪や鹿の肉と油を練り込んだものが
炭化した状態で見つかっている。
ここで想像するのは、肉と魚と貝にドングリの団子入りの縄文鍋だ。
ひとつひとつの材料は少なくてもかまわない。
土器によって複数の食材を同時に煮炊きできるということは
一種類では足りない食材を集めて
豊かな量の食べ物を作ることができることなのだから。

そして、その最古の鍋ものからはじめてのスープが生まれたはずだ。



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タグ:スープ
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2011年01月03日

森本一房くんの子孫

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森本一房くんの子孫については実はよくわかっていない。
一房くんが仕えた松浦家の殿さま松浦静山が1821年から
エンエン20年にわたって書いている随筆「甲子夜話」によると
「今子孫吾中にあり」と書いてあり、なおかつ
一房くんが書き記したアンコールワットの図面の模写が子孫に伝えられているとも
書いてあるので、少なくともその頃までは子孫が平戸藩にいたようなのだ。

一房くんがアンコールワットに落書きをしたのが1632年。
それから子孫は200年かそこいらは平戸藩にお世話になっていたのだし
そこまで世話になったのなら
幕末まできっちり平戸藩にいたのだろうと思うのだが
どうにも記録をさがせない。

一方お兄ちゃんの一友くんの子孫は
明治維新の頃には一久くんからかぞえて七代目の儀十郎がいた。
石高も歴代変わっておらず150石のままだ。
細川家侍帖に従って代々の名前を書き出すとこんな風になる。

1、四郎兵衛(藤太昌勝)*この人が一友くんだ。
2、新兵衛  乃美市右衛門組・御天守奉行 百五十石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    3、儀左衛門(四郎兵衛)
    
4、儀大夫(儀左衛門・昌栄)*森本一瑞と号し軍学師範だった。
5、藤太   新御屋形御小姓役 百五十石
    
6、新左衛門(儀大夫・喜三左衛門)
7、儀十郎

お兄ちゃんや叔父さんの家系ははっきりしているのに
一房くんの子孫はどこへ隠れてしまったのだろう。
どこかで「まあ、いいか」なんて言ってるのか??


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タグ:森本一房
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2010年12月28日

ネットで読む童話 山本高史「リトル」

litter.jpg


ネットで読む童話なのだから、子供向けではなく大人向けだと思う。
しかし童話に間違いはない。
簡潔だしシンプルだし言葉もストレートだ。
一度読むと懲りるような現実もその世界にはない。
憎みたくなる登場人物もいない。

しかしそこで語られるものは、成長から死へ向かう放物線だったり
老いて病んで弱っていくことの役割だったりする。
そんなことがやさしい言葉で手短に語られている。

山本高史の童話「リトル」 
http://www.marunouchi.com/culture/little_10_01.html

タグ:山本高史
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2010年12月26日

森本一房くんの叔父さんとその子孫

Tsuyama_Castle_old_potograph.jpg


森本一房くんのお父さん、一久くんには弟がいた。
弟は津山藩の藩主森忠政(森蘭丸の弟)に呼ばれ、
錦屋という屋号で津山の御用商人になった。
札元であり、呉服商でもあったらしい。
札元というのは藩札を発行する私的造幣局のようなものだ。
津山藩は1697年に藩主が発狂し解体され、翌年に越前松平家から
宣富が入封になって明治までつづく。

一房くんの叔父サンからはじまった錦屋も明治を迎えた。
明治13年(1880年)には当主の森本藤吉が自宅内で銀行を開業した。
さらに明治15年には呉服屋のかたわらで時計屋をはじめた。
明治15年開業の森本時計店である。津山ではじめての時計店だった。
明治42年には呉服屋も時計屋もやめてしまった。
前年に森本藤吉は病にかかり後継の森本慶三(1975年生)が
家業を継ぐために東京から戻ってきていたが
この人は内村鑑三の弟子になり洗礼を受けキリスト教に入信しており
どうも興味が商売になかったのではないかと思う。
それでも明治45年(1912年)には父藤吉の仕事を継いで
津山銀行の頭取になっている。
同時に明治44年と45年には内村鑑三を津山に招いて
聖書講演会を開いている。布教活動である。
この頃から基督教図書館開設の望みを抱いていたらしい。
大正13年(1924年)には、津山銀行は山陽銀行と合併、
慶三は非常勤取締役に就任する。
この頃は週一で銀行のための祈祷会を行なっていたようだ。
またこの年に図書館も着工し、
大正15年(1926年)には内村鑑三を招いて開館式を行なった。

これ以降は伝道やら講演やら禁酒運動やらの宗教活動がさかんになる。
(その前もさかんだったが)
本業であるはずの銀行はというと
昭和5年(1930年)に中国銀行に合併となり
その取締役に就任している。

さて、戦争中のことだった。
津山基督教図書館は反戦施設として憲兵に押収された。
やがて戦争も終わり、昭和25年にその建物は
夜間専門の津山基督教図書館学園になって
慶三は校長兼宗教家の先生として教え始める。
この学校は昭和52年まで続いた。

さて、その津山基督教図書館であり、また学校でもあった建物は
いまどうなっているかというと
1998年には文化庁の有形登録文化財に指定され
いまは森本慶三記念館になっている。
記念館のなかには歴史民族館があり、森本家所蔵の調度品や
津山藩の殿さまからの拝領品、幕末から明治の洋学資料、
日本各地の絣・紬のコレクションなどが展示されている。
さらにいうと津山科学教育博物館をつくったのも森本慶三で、
いまは「つやま自然ふしぎ館」と名前を変えて
子供たちが科学を学ぶため役立っている。

つやま自然ふしぎ館:http://www.fushigikan.jp/


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2010年12月25日

子どもたちのクリスマス

世界の子供の人口は22億人で、
貧困下の子供が10億人以上いて、
たとえば手を洗う設備と衛生教育があれば予防できる病気で
5歳までに死ぬ子どもが1日に2万9,158人いる。

ポルノや売春、薬物の取引、武力紛争で強制的に武器を持たされる、
拷問はあっても休日はない奴隷状態での労働などなど
いわゆる「最悪の形態の児童労働」に携っている子供は
1億8000万人もいる。
人身売買の犠牲になっている子供は120万人、
18才未満の子ども兵士は30万人。
毎年100万人以上の子どもが性産業に送りこまれている。

メリークリスマス
サンタカメラのサンタクロースは
世界のすべての子どもたちにプレゼントを配る(と言っている)

サンタカメラ:http://www.noradsanta.org/ja/track3d.html

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2010年12月24日

サンタクロース 出発



サンタクロース出発
北極から太平洋へ、さらにロシア沿岸へ
それからベーリング海峡を越えてマーシャル諸島へ向かいます。

サンタカメラ:http://www.noradsanta.org/ja/video.html
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サンタクロース待機中

サンタの村では、いままさにサンタが橇に乗り込もうとしています。
いまというのは日本時間12月24日の18時です。

北米航空宇宙防衛司令部は世界中を飛びまわるサンタの姿をカメラでとらえ
その様子を3Dムービーで放映します。

下のムービーは去年のクリスマスのものですが
間もなくサンタがサンタ村を出発すると
下記のHPで動画が更新されていきます。

http://www.noradsanta.org/ja/index.html



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2010年12月12日

お兄ちゃんの一友くん

castle1.jpg


森本一房くんのお兄ちゃんは、森本四郎兵衛一友という。
一友くんも勇猛で知られ、加藤家二十四将に名を連ねている(らしい)
(そんなもんがあったとしての話だが。加藤清正二十将は錦絵がありますね)

さて、1611年に清正が亡くなり、
その1年後にお父さんの一久くんも死んで
次男の一房くんは熊本を出ていってしまった。
一友くんは長男だし勝手なこともできず
それから20年ほどがんばっていたのだが、
やがて1632年に加藤家が改易になって潰れてしまう。
加藤家の家臣のなかには細川家に再就職した人も多い。
庄林一心の息子も細川家に行った。
細川家侍帳には、島原の乱のときに浪人だった一友くんが
細川家の家臣でありながら3万石の大名格だった松井佐渡の下で働き、
ここで手柄を立てたことによって直臣として細川家に就職したと
書いてあるらしい。
要するに松井さんから細川さんにトレードされたわけだ。
名門好きの細川家は各地から名門の家臣を集めてコレクションしていたので
加藤家三傑の嫡男ならば容易に就職できたのではなかろうか。
細川家の一友くんは食禄150石。子孫は無事に明治の世を迎えている。




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