2011年03月20日

プトレマイオス三世

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*写真はプトレマイオス三世の妻ベレニケ二世


プトレマイオス朝の三代め、プトレマイオス三世も賢王だった。
プトレマイオス朝はこの王のときに全盛期を迎えたといえる。
即位した年(BC246年)にシリアに嫁いでいた姉妹を殺され
その報復でシリアを攻め(第三次シリア戦争)、
首都アンティオキアを占領。
その勢いで20km余り先の交易都市セレウキアになだれ込みひと稼ぎした。
(つまり略奪をした)
まあ、これはシリアが悪い成り行きのようだ。
第二次シリア戦争が終結して和睦のしるしに嫁にやったプトレマイオスの
姉ちゃんだか妹だかは殺されてしまったのだし。
しかし、殺したのはシリア王ではない。王の前妻だ。
前妻は後妻ともども王も殺してしまった。
よほど離婚に恨みを持っていた…というよりも権力争いだ。

さて、プトレマイオス三世の歴史に残る戦争といえばまあこのくらいだ。
アレキサンドリアの大灯台は父の代に完成している。
図書館には名だたる学者と文化人が集まっている。
その図書館の館長は地球の大きさをはじめて測ったエラトステネスだ。
プトレマイオス一世が持ち込んだヘレニズム文化は
エジプト文化とほどよく融合しているし
妻のベレニケ二世は美しい髪でも有名だが、賢い妃でもあったらしい。
何も言うことはない。
幸せな三代め、それがプトレマイオス三世だ。

プトレマイオス三世のたったひとつの禍根は息子がアホだったことだ。
息子のプトレマイオス四世は大酒飲みの放蕩もので
狡賢い家来の言うことばかりきいた。本当に困った奴だった。


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2011年03月13日

プトレマイオスの二代めときたら

p2.jpg


さて、プトレマイオス朝のファラオ二代めは
プトレマイオス二世である(当然だが)
この人はプトレマイオス一世の次男だったが
長男がエジプトから追放されたために後継者になった。
(追放された長男はマケドニア国王になったがやがて滅亡)

プトレマイオス二世は賢い人だったらしく
領土を拡大したし中央集権国家を築いたし
交易ルートは確保したし、
学者や文人を招聘して文化面の功績も大きい。

しかし、もうひとつの功績もあって
血族結婚の先例もプトレマイオスがつくっているのだ。
エジプト人の王朝は確かに血族結婚が多かったが
ギリシャ人にその伝統はなかった。
ところがプトレマイオス二世は出戻りのお姉ちゃんと結婚してしまった。
もともとプトレマイオス二世にはアルシノエという妃がいたのだが
これを追い出してお姉ちゃんと結婚して
このお姉ちゃんの妃がアルシノエ二世という。

アルシノエ二世は賢い人だったらしく
プトレマイオス二世の共同統治者として貢献したと伝えられ
死語は神殿に祀られているのだが
プトレマイオス朝の血族結婚の歴史は
まさにここからスタートしてしまったのだった。



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2011年03月06日

そもプトレマイオスのはじまりは

800px-Map-alexander-empire.png
*上はアレキサンダー大王の版図

プトレマイオスはエジプトのファラオの名として知られている。
プトレマイオス王朝は紀元前306年から276年も続いたし
プトレマイオスと名前のついたファラオは十五世までいる。
ちなみにプトレマイオス十五世は
あのクレオパトラとシーザー(ユリウス・カエサル)の息子だ。

ところでそのプトレマイオスだが
プトレマイオスを語るとなると
やはりプトレマイオス一世からはじめなければならない。
プトレマイオス一世はファラオになる前は
かのアレキサンダー大王(マケドニア)の将軍だった。
アレキサンダー大王はマケドニアの王さまで
ギリシャに覇を唱えたかと思うと小アジア(いまのトルコのあたり)を攻め
シリアとフェニキアを蹴散らしてエジプトに侵入、
これを征服したかと思うと、ペルシャに侵攻し
勢いあまってインドまで攻め入っている。
東のチンギス・ハーン、西のアレキサンダー大王というくらい
その版図は広い。

マケドニアという国はもともとギリシャ人が住んでいたので
アレキサンダー大王もプトレマイオス将軍もギリシャ人だ。
そのアレキサンダー大王がエジプトを征服したときのファラオは
ペルシャ人だったが、どうやら過酷な統治をしていたらしい。
アレキサンダー大王は解放者として人気を博し
メリアメン・セテプエンラーというややこしい名前のファラオになった。

さて、アレキサンダー大王はインドから戻ったと思うや
高熱を発して亡くなってしまう。
その遺言は「最強のものが帝国の継承者」という
いかにも争いの種になりそうなもので、
残された将軍たちは会議を開いたり争ったりしながら
領土を切り取っていった。
そのとき、プトレマイオスが獲得したのがエジプトだったので
ここにプトレマイオス朝初代ファラオとしての
プトレマイオス一世が誕生する。紀元前305年のことだった。
プトレマイオス一世はマケドニアに移送中の
アレキサンダー大王の遺体を強奪し、ミイラにして
エジプトの首都アレキサンドリアに埋葬してしまったが、
そんなに大王が好きだったのか?
共に学んだ「学友」でもあったらしいのだが。

さて、プトレマイオス一世はエジプトの公用語をギリシャ語とし
ヘレニズム文化を導入した。
アレキサンドリアは大都市となり、
世界七不思議のひとつでもある大灯台の建設もはじまった。
なによりも人類史上最大の図書館ができた。

プトレマイオス一世はアレキサンダー大王の伝記も執筆しているが
アレキサンドリア図書館焼失の際に失われている。

プトレマイオスはざっと初代だけでもこれだけの説明がいる。
たいへん面倒なことだ。
なかなか三世までたどりつけないぞ。



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2011年03月05日

現在の中国馬

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狭い日本でも在来馬は8種いるというのだから
中国の馬はどれほどの種類がいるのか想像もつかないが
まず有名な4種を挙げると次のようになるらしい。

モンゴル馬(モンゴル地方)
 体高120〜135センチ、300kg前後
 ガッシリ、幅広、短足、寒さに強い

哈萨克馬(カザフ馬、ウイグル地方)
 武帝が名付けた西極馬がこの馬
 
河曲馬(青海地方)
 体高135~140センチ 350kg〜400kg
 細い顔、スマート、胸が広くたくましい、穏やかな性格で持久力あり

山丹馬(甘粛地方)
 もっぱら荷運びに従事していた品種で、体格ががっしりして背中が水平。
 毛が長く、高山の氷点下の寒さに適応する。

なお、汗血馬の原産地は現在のトルクメニスタンのアハル州で、
汗血馬はアハル・テケと呼ばれている。
いま世界でも3000頭余りしかおらず
そのうち2000頭がトルクメニスタンで飼育されている。
スピードと持久力を兼ね備えた黄金の馬である。
金属的な光沢を持つ毛並みは美しく、
馬術競技の飛越のフォームの優美さもよく知られている。
なお、性格は頑固であり扱いにくく、ひとりの人間にのみ懐くといわれている。
タグ:赤兎馬
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2011年02月26日

その頃の馬

uma0008-024.jpg


前漢の武帝が大苑の血汗馬を求めたころ大陸にはどんな馬がいたのだろうか。

まずモンゴル馬である。
モンゴル馬はずんぐりしている。銅が太くて短い。首も短い。
顔が大きい。
しかし見かけと違って賢いというし、タフで勇敢だった。
モンゴルの騎馬遊牧民にとっては家族同様であり
移動手段としても戦いの相棒としてもなくてはならないパートナーだった。
ジンギスカンが乗ったのもこの馬だ。

そのモンゴル馬を羨んだのが漢の武帝だった。
匈奴と戦って勝てないのは馬の違いではないか…
どうやらそんなことを考えたらしい。
その当時の中国の馬がどんなだったかわからないが
日本の在来馬がどうやってもたらされたかについてのある説によると
小型馬が中国の四川、雲南、華南あたりから沖縄を経由して九州へ
中型馬はモンゴルから朝鮮半島を経由してということになっている。
これからすると、どうやら中国馬はモンゴル馬より貧弱だったようなのだ。

さて、大陸一の名馬を産する大苑の北の西には鳥孫(うそん)という国があった。
鳥孫も騎馬民族の国で、ここから武帝に贈られた馬も
たくましく駿足の名馬であったので、武帝は喜んで鳥孫の馬を天馬と呼んだ。

その後、武帝は大苑から汗血馬を得、これを天馬にして
鳥孫の馬は(位を下げて)西極馬と呼ぶようになったという。



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タグ:汗血馬
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2011年02月12日

武帝と馬

400px-Western_Regions_in_The_1st_century_BC_(ja).png


武帝は紀元前二世紀の人で前漢の七代めの皇帝だが
この人は匈奴を攻めるために遥か西の大月氏のもとへ同盟の使者を派遣した。
同盟は失敗に終ったが
それまでよく知られていなかった大陸の西の情勢が
これによってあきらかになる。
大月氏の国はいまでいうサマルカンドのあたりであって
東西交易の拠点でもあった。

さて、武帝の使者張騫は100人あまりの外交使節団を率いて西へ向かったが
あっっという間に匈奴に捕えられ10年の歳月を送る(匈奴の妻まで娶っている)
10年めにやっと脱出し、大苑国(いまのフェルガナ盆地)に至り
大苑の世話を受けながらキルギスを抜けて大月氏国へたどりついたのだった。

大月氏との同盟はならなかったが、使者の張騫は13年めに帰国すると
耳寄りな情報を武帝に伝えた。
「大苑では汗血馬という名馬を産す」という情報だった。

武帝は天馬の子孫と伝えられる汗血馬を欲し
たくさんの黄金と金でつくった馬を使者とともに大苑に送ったが、
よもやここまで武帝が攻めて来るまいとみくびった大苑の王によって
使者は殺されてしまった。
ここにきて武帝は怒り、大苑討伐に乗り出した。
104年の第一次大苑討伐隊は敗退し、ますます怒った武帝によって
102年、第二次大討伐隊が送られる。
第二次討伐隊はよく戦い、城を取り囲み水源を絶ちさらに外城を壊して
敵の勇将を捕虜にした。
ことここに至って、大苑の城の内部では貴族たちが王を殺し
その首と汗血馬を差し出した。

汗血馬は背が高く、首と足がすらりと長く美しかった。しかも駿足で、
これを手に入れることは当時としては戦闘機を手に入れるのと同じだった。
武帝はこうして手に入れた汗血馬を「天馬」として喜び
やがて血汗馬は権力の象徴にもなっていった。



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2011年01月24日

縄文式鍋ものの中身

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世界最古の土器だという日本の縄文式土器の時代に
当時の人々がなにを食べていたのかを考えてみる。

ヨーロッパに較べると多彩な肉類はなかったと思われる。
トナカイのように群れで移動する獣もいない。
鹿はいる。猪もいる。うまく仕留められれば熊もいる。
秋になれば森ではドングリを拾える。クルミ、栗、栃の実。
それから山芋にキノコに山ゴボウ。
野菜は我々の考える野菜ではなくアクの強い山菜だが
食料にはなる。
七草粥に入れるようなものはすべて食べていただろう。

川や海では魚と貝。海草もある。
海岸線近くの貝塚ではハマグリや牡蠣などの貝殻に混じって
鯛やスズキの骨も発見される。クジラやイルカの骨も一緒に。

これだけ多彩な食物があると
現代人でも鍋料理をつくりたくなる。
縄文の遺跡からは木の実を粉にして猪や鹿の肉と油を練り込んだものが
炭化した状態で見つかっている。
ここで想像するのは、肉と魚と貝にドングリの団子入りの縄文鍋だ。
ひとつひとつの材料は少なくてもかまわない。
土器によって複数の食材を同時に煮炊きできるということは
一種類では足りない食材を集めて
豊かな量の食べ物を作ることができることなのだから。

そして、その最古の鍋ものからはじめてのスープが生まれたはずだ。



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タグ:スープ
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2011年01月17日

はじめてのスープ




はじめてのスープ

人類が火を使うようになったのはいつの頃か。
この問いにまだ確かな答えはない。
現在発見されている痕跡としてはアフリカのものがいちばん古く
南アフリカのスワルトクランス洞窟では
160万年前の「火の痕跡」があるのだという。
この時代は洪積世と呼ばれ、ホモ・エレクトスと呼ばれる人類がいた。

火は闇と照らし、また野獣を遠ざける役割もあったが
同時に「調理」にも使うことができた。
しかしこの時代にはまだ土器がない。
調理といっても単に肉を炙ったり、
何かの葉にくるんで蒸し焼きにする程度だったと思われる。

土器の発明は2万~1万8千年前だといわれる。
それは最終氷河期の終わり頃で、最初の土器は東アジアで生まれ
日本列島では1万6千年ほど前から土器作りがはじまったとされる。

土器の発明によって、
人は異なる食べ物を同時に煮炊きできるようになった。
たとえば単純に考えて、ここに肉と栗と野菜があったとする。
火があって土器がなければ、肉は肉で焼き、栗は栗で焼く。
野菜は焼くことに適していないので生で食べるしかない。
当時の野菜はアクも強く、おそらく生で食べるのはしんどかったと思う。
しかし土器があれば、肉も木の実も野菜も一緒に煮ることができる。
煮ることによってアクも抜けるし柔らかくもなる。
1万6千年前の日本でいえば、縄文式鍋ものがはじまったわけなのだ。

その汁を飲むこと、つまりスープはここから始まったと思われる。
縄文式鍋ものの中身

世界最古の土器だという日本の縄文式土器の時代に
当時の人々がなにを食べていたのかを考えてみる。

ヨーロッパに較べると多彩な肉類はなかったと思われる。
トナカイのように群れで移動する獣もいない。
鹿はいる。猪もいる。うまく仕留められれば熊もいる。
秋になれば森ではドングリを拾える。クルミ、栗、栃の実。
それから山芋にキノコに山ゴボウ。
野菜は我々の考える野菜ではなくアクの強い山菜だが
食料にはなる。
七草粥に入れるようなものはすべて食べていただろう。

川や海では魚と貝。海草もある。
海岸線近くの貝塚ではハマグリや牡蠣などの貝殻に混じって
鯛やスズキの骨も発見される。クジラやイルカの骨も一緒に。

これだけ多彩な食物があると
現代人でも鍋料理をつくりたくなる。
縄文の遺跡からは木の実を粉にして猪や鹿の肉と油を練り込んだものが
炭化した状態で見つかっている。
ここで想像するのは、肉と魚と貝にドングリの団子入りの縄文鍋だ。
ひとつひとつの材料は少なくてもかまわない。
土器によって複数の食材を同時に煮炊きできるということは
一種類では足りない食材を集めて
豊かな量の食べ物を作ることができることなのだから。

そして、その最古の鍋ものからはじめてのスープが生まれたはずだ。



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2011年01月03日

森本一房くんの子孫

AngkorWat_Delaporte1880.jpg

森本一房くんの子孫については実はよくわかっていない。
一房くんが仕えた松浦家の殿さま松浦静山が1821年から
エンエン20年にわたって書いている随筆「甲子夜話」によると
「今子孫吾中にあり」と書いてあり、なおかつ
一房くんが書き記したアンコールワットの図面の模写が子孫に伝えられているとも
書いてあるので、少なくともその頃までは子孫が平戸藩にいたようなのだ。

一房くんがアンコールワットに落書きをしたのが1632年。
それから子孫は200年かそこいらは平戸藩にお世話になっていたのだし
そこまで世話になったのなら
幕末まできっちり平戸藩にいたのだろうと思うのだが
どうにも記録をさがせない。

一方お兄ちゃんの一友くんの子孫は
明治維新の頃には一久くんからかぞえて七代目の儀十郎がいた。
石高も歴代変わっておらず150石のままだ。
細川家侍帖に従って代々の名前を書き出すとこんな風になる。

1、四郎兵衛(藤太昌勝)*この人が一友くんだ。
2、新兵衛  乃美市右衛門組・御天守奉行 百五十石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    3、儀左衛門(四郎兵衛)
    
4、儀大夫(儀左衛門・昌栄)*森本一瑞と号し軍学師範だった。
5、藤太   新御屋形御小姓役 百五十石
    
6、新左衛門(儀大夫・喜三左衛門)
7、儀十郎

お兄ちゃんや叔父さんの家系ははっきりしているのに
一房くんの子孫はどこへ隠れてしまったのだろう。
どこかで「まあ、いいか」なんて言ってるのか??


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タグ:森本一房
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2010年12月26日

森本一房くんの叔父さんとその子孫

Tsuyama_Castle_old_potograph.jpg


森本一房くんのお父さん、一久くんには弟がいた。
弟は津山藩の藩主森忠政(森蘭丸の弟)に呼ばれ、
錦屋という屋号で津山の御用商人になった。
札元であり、呉服商でもあったらしい。
札元というのは藩札を発行する私的造幣局のようなものだ。
津山藩は1697年に藩主が発狂し解体され、翌年に越前松平家から
宣富が入封になって明治までつづく。

一房くんの叔父サンからはじまった錦屋も明治を迎えた。
明治13年(1880年)には当主の森本藤吉が自宅内で銀行を開業した。
さらに明治15年には呉服屋のかたわらで時計屋をはじめた。
明治15年開業の森本時計店である。津山ではじめての時計店だった。
明治42年には呉服屋も時計屋もやめてしまった。
前年に森本藤吉は病にかかり後継の森本慶三(1975年生)が
家業を継ぐために東京から戻ってきていたが
この人は内村鑑三の弟子になり洗礼を受けキリスト教に入信しており
どうも興味が商売になかったのではないかと思う。
それでも明治45年(1912年)には父藤吉の仕事を継いで
津山銀行の頭取になっている。
同時に明治44年と45年には内村鑑三を津山に招いて
聖書講演会を開いている。布教活動である。
この頃から基督教図書館開設の望みを抱いていたらしい。
大正13年(1924年)には、津山銀行は山陽銀行と合併、
慶三は非常勤取締役に就任する。
この頃は週一で銀行のための祈祷会を行なっていたようだ。
またこの年に図書館も着工し、
大正15年(1926年)には内村鑑三を招いて開館式を行なった。

これ以降は伝道やら講演やら禁酒運動やらの宗教活動がさかんになる。
(その前もさかんだったが)
本業であるはずの銀行はというと
昭和5年(1930年)に中国銀行に合併となり
その取締役に就任している。

さて、戦争中のことだった。
津山基督教図書館は反戦施設として憲兵に押収された。
やがて戦争も終わり、昭和25年にその建物は
夜間専門の津山基督教図書館学園になって
慶三は校長兼宗教家の先生として教え始める。
この学校は昭和52年まで続いた。

さて、その津山基督教図書館であり、また学校でもあった建物は
いまどうなっているかというと
1998年には文化庁の有形登録文化財に指定され
いまは森本慶三記念館になっている。
記念館のなかには歴史民族館があり、森本家所蔵の調度品や
津山藩の殿さまからの拝領品、幕末から明治の洋学資料、
日本各地の絣・紬のコレクションなどが展示されている。
さらにいうと津山科学教育博物館をつくったのも森本慶三で、
いまは「つやま自然ふしぎ館」と名前を変えて
子供たちが科学を学ぶため役立っている。

つやま自然ふしぎ館:http://www.fushigikan.jp/


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2010年12月12日

お兄ちゃんの一友くん

castle1.jpg


森本一房くんのお兄ちゃんは、森本四郎兵衛一友という。
一友くんも勇猛で知られ、加藤家二十四将に名を連ねている(らしい)
(そんなもんがあったとしての話だが。加藤清正二十将は錦絵がありますね)

さて、1611年に清正が亡くなり、
その1年後にお父さんの一久くんも死んで
次男の一房くんは熊本を出ていってしまった。
一友くんは長男だし勝手なこともできず
それから20年ほどがんばっていたのだが、
やがて1632年に加藤家が改易になって潰れてしまう。
加藤家の家臣のなかには細川家に再就職した人も多い。
庄林一心の息子も細川家に行った。
細川家侍帳には、島原の乱のときに浪人だった一友くんが
細川家の家臣でありながら3万石の大名格だった松井佐渡の下で働き、
ここで手柄を立てたことによって直臣として細川家に就職したと
書いてあるらしい。
要するに松井さんから細川さんにトレードされたわけだ。
名門好きの細川家は各地から名門の家臣を集めてコレクションしていたので
加藤家三傑の嫡男ならば容易に就職できたのではなかろうか。
細川家の一友くんは食禄150石。子孫は無事に明治の世を迎えている。




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2010年12月05日

お父さんの一久くん

kumamotojyo.jpg



森本一房くんのお父さんは加藤清正の家来で加藤家十六将のひとりだった。
また加藤家三傑のひとりでもあった。
三傑とは、森本一久、飯田(覚兵衛)直影、庄林(隼人佐)一心の三人である。
一久は飯田直影とともに清正の竹馬の友で、中途入社の庄林一心とともに
3000石以上の家臣に名を連ねている。
一房くんのお兄ちゃんの一友くんと一房くんも
兄弟で清正に仕え、500石以上もらっていた。

加藤清正ははじめ豊臣秀吉に170石の小姓として仕え
関ヶ原の戦い前には19万5千石の大名だったが
最終的には54万石にまで成り上がる(52万石ともいう)
その清正の幼なじみで早くから家来になり
頭角をあらわしていた森本一久と飯田直影の棒給はというと
朝鮮出兵の手柄で飯田直影は3000石をもらったとある。
Wikiによると6500石でその後1万500石になっている。
当時の収入は殿さまの出世や自分の手柄で変化したが
この1万500石は清正亡き後のことだろうと思う。
清正の後継として11才で藩主となった忠広を支えたのが
飯田直影だったのだ。
さて、その飯田直影が6500石のころ、森本一久は5126石と思われる。
加藤家侍帳に森本義太夫という名前があって
これが一久くんのことだと思われるからだ。
庄林一心は同じ加藤家侍帳に1382石と記載されている。

一友&一房の兄弟はお父さんが高給取りだった上に
自分らも数百石を稼いでいる。なかなかだ。
けっこう贅沢もできた気がする。

さて、生まれ育った次男の一房くんの
波乱のような、そうでもないような人生は
これからはじまる。



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2010年11月28日

森の三日月の物語

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昔、唐(618年−907年)の天台山の地主神が
日本の英彦山(福岡県)に水晶になって天下った。
5年後には伊予(愛媛県)の石鎚山、6年後には淡路国の遊鶴羽山、
また6年後には紀伊国の切部山の松の木に移った。

それから57年たって、水晶は熊野の神倉山に降臨した。
さらに61年後、石淵谷にお移し申し上げたときに
はじめて神の名をあらわした。
それは「結玉家津美御子」といった。
「ムスビ」「タマ」「ケツミミコ」は
「ムスビ」と「タマ」が一対だったので「ケツミミコ」と合わせて
ふたつの社に祀られていた。

それから13年後
神は熊野川の中州、大斎原(おおゆのはら)の森の三本のイチイの木に
3つの月形となって天下った。
ここで神ははじめて三体になる。

さらに八年がたって
ある日、イノシシを追う狩人が木にぶらさがった三日月を発見し
不審に思って問いかけたところ
ひとつは証誠権現、のこりふたつは両所権現と名乗った。
猟師はすっかり恐れ畏まって、3つの月にために仮宮をつくって祀った。

この話は神仏習合がさかんだった時代の、つまり平安時代の
熊野本宮大社の発祥の物語だ。
熊野本宮大社の創建は崇神天皇の時代といわれ
それを信じるならば紀元前ということになるのだが
この三日月の物語は「唐の天台山」という出だしが困ったものだ。
700年くらい時代がズレている。
熊野の神々には諸説ありすぎるくらいあるので
ときにはこんなノドカな物語を紐解くのもいい。

ところで、
熊野には旧暦の11月23日には月が三体になって見えるという
伝承があり
二十三夜の月待ちの行事がいまも行なわれている。
三体の月はおそらく「幻月」という現象で
空気中に氷の結晶が生じ、そこを通過する光の屈折で
月の両側に幻の月があらわれるそうだ。

旧暦の11月23日といえば
今年でいうならば12月28日にあたる。
しかも月の出は夜中過ぎになる。
空気も凍る寒さだろうと思う。



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2010年11月24日

ヤマトタケルの熊野神社

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長野県と群馬県の県境に熊野皇大神社があり
創建はヤマトタケルといわれている。
まあ、そういうことにしておくと
この県境の熊野神社ができたのは二世紀のはじめの頃で
これは全国に数ある熊野神社のなかでも
最古の部類ではないかと思う。

ここに祀られているのは、イザナミと事解之男(コトサカノオ)と
速玉男(ハヤタマオ)である。
こちらの速玉男はスサノオという伝承がある。

さて、ここで気になるのは
熊野では熊野三神の影に隠れて実に目立っていない事解之男が
こちらの熊野神社では三神のひとりとして
堂々と姿をあらわしていることだ。

事解之男(コトサカノオ)は、日本書紀によると
黄泉の国で生まれた。
イザナギがイザナミを追って黄泉の国へ行ったときで
ざっとこんな状況である。

 「おまえのことを悲しんでここに来たのだ」
  「私のことを見ないでください」
   (イザナギはなおもしげしげとイザナミの変わり果てた姿を見る)
  「あなたは私の真実を見てしまった。私もあなたの真実を見ます」
   (イザナギは己の真実を恥じて帰ろうとするが、その前にひと言いう)
 「もう我々は別れることにしよう。恨まれても負けないぞ」

イザナギの身勝手さはさておくとして
このときイザナギが唾を吐いて生まれたのが速玉男(ハヤタマオ)
それを掃うときに生まれたのが事解之男だという。
唾を吐いて掃う(祓う)のが別れの儀式だったのかどうか知らないが
唾は自分の分身であり、その分身を祓うことによって
黄泉の国との関係を断ったということだろうか。
速玉男も事解之男(コトサカノオ)も黄泉の穢れを浄化する神と
考えられている。

さて、長野と群馬の県境の熊野皇大神社に坐します事解之男は
この事解之男と同一神なのだろうか。
そうではないという説がある。

この世にはさまざま面倒な書物が存在するが
歴代の天皇がああしたこうしたというのをまとめた
「帝王編年記」には、崇神天皇がニギハヤヒを祭るときに
事解之男という別名にしたと書いてあるらしいのだ。
「帝王編年記」は室町初期の成立なので、著者はもちろんのこと
崇神天皇の支配する紀元前の日本列島のことなど知るよしもない。
ただ、そういった伝承があったのだろうと思う。
しかし、そうなると熊野神社の事解之男は黄泉で生まれた神ではなく
ニギハヤヒの別名であり
ニギハヤヒにはオオクニヌシの息子説、スサノオの息子説など
楽しく興味深いさまざまな説があるし
さらに神武天皇以前の王権の存在もニギハヤヒから見えてくる。

祭神を「イザナミ」「速玉之男(スサノオ)」
「事解之男(ニギハヤヒ)」とする熊野神社は日本各地に残るが、
いずれも古い神社であり

熊野考をますます楽しいものにしてくれている。



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2010年11月18日

陰の神の集うところ

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日本の神話には陰の神々と陽の神々がいる。
高天原系の神々は陽の神だが
陰のはじまりは死んで根の国へ行ってしまったイザナミだ。
根の国へ追放されたスサノオも陰神の代表格といえそうだ。
国土開発の揚げ句に国譲りなどと称して
国を取り上げられて滅ぼされたオオクニヌシの一族も陰神である。

熊野の神々は後世になって
イザナギやイザナミ、スサノオ、オオクニヌシと
いわれるようになった。
「タマ」がイザナギ、「ムスビ」がイザナギ、「ケ」が
スサノオで、熊野那智大社に坐しますオオナムチが
オオクニヌシという伝承である。「タマ」がスサノオという場合もある。
簡単にまとめるとこんな風になる(★印が主祭神とされる神)

熊野本宮大社
 西御前「ムスビ」熊野夫須美大神・事解之男神(ニギハヤヒとも?)
 中御前「タマ」熊野速玉之男大神・伊邪那岐大神
 證証殿 ★「ケ」家都美御子大神
 若宮 天照皇太大神(アマテラスのことだが、一説ではニギハヤヒ)

熊野那智大社
 滝宮 オオナムチ(オオモノヌシまたはオオオクニヌシ)
 證証殿 「ケ」家都御子神・国常立尊
 中御前 「タマ」御子速玉之神
 西御前 ★「ムスビ」熊野夫須美大神・事解之男神
 若宮 天照大神(アマテラスのことだが、一説ではニギハヤヒ)
 別宮 飛瀧神社 オオナムチ

熊野速玉大社
 結宮 ★「ムスビ」熊野夫須美大神
 速玉宮 ★「タマ」熊野速玉大神
 証誠殿  「ケ」家津美御子大神・国常立尊
 若宮  天照皇太大神(アマテラスのことだが、一説ではニギハヤヒ)
(神倉宮) 高倉下命

中世の伝承にしたがうと「タマ」をイザナギ、「ムスビ」をイザナギ
「ケ」がスサノオになり黄泉の国トリオが揃う。
さらに那智にはオオモノヌシ(オオクニヌシ)もいるし
アマテラスは実は太陽神の天照大神のことではなく
天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊のことだとの説がある。
つまり、ニギハヤヒである。
天孫降臨以前に天鳥船に乗って近畿に下った神であり
滅亡した物部氏の始祖神ともいわれている。
さらに事解之男(コトサカノオ)もいる。
コトサカノオは日本書紀によると黄泉の国で生まれた神だが
熊野のコトサカノオはニギハヤヒの別名だともいわれるので
さらにややこしい。

古事記や日本書紀が編纂された時代から
神々の系譜や歴史は支配者に都合よく書き換えられ、
国家による管理がしやすくなっていった。
支配者による土地の神の乗っ取り、名前のつけ変えなどは
当然あっただろうし
神を祀る側としては、なんとか朝廷にバレないように
神さまの名前をわかりにくくしておこうというようなことも
あったと思う。

しかし、それにしても
熊野に集うのは根の国、黄泉の国と縁が深い神々だ。
熊野は根の国、黄泉の国、一筋縄ではいかない。



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2010年11月07日

ハヤタマとムスビ

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熊野三神は熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家都美御子大神である。
それぞれ「クマノハヤタマノオオカミ」「クマノムスビノオオカミ」
「ケツミミコノオオカミ」と読む。

クマノムスビは「ムスビ」だから生産、生成の力と思われる。
世界創造であり、無から有を生じさせるパワーである。
一方ハヤタマの「タマ」は魂であり、神霊である。
「ハヤ」は「映えわたる」と考えればよいのではないか。
スサノオの別名にハヤスサノオがあるが
スサノオには「荒ぶる」の意があるので
非常にラフないいかたをすると、「メチャメチャ乱暴」の
「メチャメチャ」が「ハヤ」だ。
古い朝鮮語に由来を求めると、ハヤは石、タマは王。
やっぱり強そうだ。
タマとムスビの二柱の神はもともとは一対だったという。
神さま本体(タマ)とその生成のパワー(ムスビ)という
組み合わせがタマ&ムスビだったのかもしれない。

ところで、いつかは知らないが
熊野速玉大神(ハヤタマ)をイザナギ、あるいはスサノオ
熊野夫須美大神(ムスビ)をイザナミであるというようになった。
これはもともと日本神話に出て来るイザナギとイザナミを祀ったと
単純に考えるべきではなく
熊野という世界の始祖神と考えるべきと思う。

ところで、家都美御子大神(ケツミミコ)だが
もともとはこの神の名はあきらかではなく
単に熊野坐大神という名で呼ばれていた。それは
熊野においでになる大いなる神という意味で、特定の名前ではない。
もともと神と呼ばれるものはチカラでありエネルギーであって
「白い着物を着たおじいさん」や「袋を背負った人」ではなく
「山田太郎」というような固有名詞は存在しない。
名前をつけて気安く呼ぶにはあまりに強大で恐れ多いからだ。
ハヤタマもムスビも固有名詞ではない。
強いていえばチカラの方向性を象徴するコトバだ。
ケツミミコという名前は固有名詞らしく聞こえるが
「ケ」が「食(ケ)」の意味だとすると食物の神で
あとは尊称やら美称だろう。
そもそも熊野坐大神がケツミミコという名で呼ばれるようになったのは
少なくとも9世紀以降のことだった。
伊勢神宮にアマテラスとトヨウケ(食物神)がいるように
熊野にも食の神が必要だと思ったのだろうかもしれないが
もともと熊野坐大神という正体の片鱗もわからない
恐ろしそうなこの神を食物神にしてしまうのは
無理があるような気がする。
この神はスサノオだとされることもあるが
そのくらい荒ぶる強大な神だったのだろう。

熊野の神々はなかなかその正体を明かさない。
人が神に名前をつけ正体を記すことはある種の管理だが
熊野の神々は神話を捏造し神社を統合してきたかつての支配者たちの
手に余るものがあったのかもしれない。


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2010年10月31日

神武天皇の熊野上陸

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神武天皇の熊野上陸


なにしろ神代の時代ということで
人も神も、それから名づけようのないあやしいものまで
日本列島に跋扈していたことになっている。

神武天皇は列島の中央に陣取ってこの国全体の支配者になるべく
日向(宮崎県)の高千穂から東に軍をすすめていた。
あちらこちらでかなり長い寄り道などあったが
とにかくも瀬戸内海から大阪湾に出て淀川をさかのぼり
大和へ向おうとした。
ところが、ナガスネヒコの抵抗に遭い敗退してしまう。

それから神武は紀伊半島を南下し熊野に上陸、
そこから北上して大和をめざすことにした。
淀川コースが表玄関だとすると、熊野は裏である。
城でいえば搦手に当たる。
搦手は険阻な山を背負うなどして出入りをむづかしくするものだが
熊野がまさしくそうだった。どこまでも山がつづいている。
険しい道もあれば薮を掻き分けてやっと進む道もあった。
八咫烏が案内をしたということになっているから
山中に熊やイノシシを追う狩人が山越えを案内したのかもしれない。
しかし、神武は熊野を征服して進んだのではなかった。
神武は熊野をただ通過しただけであり
おそらく、なるべく戦わないように通過したのであり
神武が大和を帰順させた後も
熊野は未征服の地、あるいは未開の地として日本史に残りつづけた。



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2010年10月25日

聖なる右手と不浄の左手

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インドでは右手が聖なるものとされる。
食事のときは当然ながら右手のみを使う。
グローバルな人々はナイフとフォークを両手で操ることに
なじまざるを得ないとはいえ
左手で誰かにものを渡したりするのは失礼なことであるらしい。
左手はトイレで使う手であり、不浄な手だからだ。

さて、そのインドでも右手と左手を合わせて合掌をする。
これはなぜだろう。

右手は聖なる手で神々を象徴する。
不浄な左手は自分自身の象徴である。
その右手と左手を合わせる行為は自分と神との合一といえるのだ。



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2010年10月22日

おおきに

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「おおきに」は西の言葉だ。
「おおきに」によってその後につづく言葉が省略されるし
また省略してもよいことになっている。
「おおきに」という言葉に馴染んでいる人は
そのときどきで言外の意味をさとってしまうので
最後まで口にするのは野暮で恥ずかしいのだが
馴染みのない人にとってはハンパな上に魑魅魍魎の言葉だともいえる。
おおきに=ありがとうだと思っている人もいれば
おおきに=すみませんと思う人もいる。
また、「おおきにお世話な」といえば、これは感謝ではなく
余計なお世話という意味になるので油断がならない。

オホキニやオホキナルは大きさや偉大さをあらわす古い言葉で
源氏物語に「年のほどよりオホキニ大人しう清らかに」とあるのは
年齢よりは大きくと解釈してよかろうし
「皆オホキニ歓喜し」は大いに喜んだという意味だろう。

「おおきに」に馴染みのない人はその意味を確定したがるけれど
「おおきに」は放っておくのがいい。
オホキニは数として数えられない量の多さを意味するだけで
その真の意味はその言葉を発する人の態度や
その言葉が発されたときの状況のなかに潜んでいるのだ。



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2010年10月15日

「かたじけない」は古い、「ありがたい」は新しい

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「かたじけない」は古い、「ありがたい」は新しい


お礼の言葉はそもそも神仏に対して用いられた言葉が
人に対しても使われるようになったもので
「ありがたい」は江戸時代の初期から芝居などで使用例が見られ
それ以前は「かたじけない」がもっぱらであったらしい。
また地域によっても違っており
「ありがたい」が広まったのは江戸、
上方(関西)では江戸後期になっても「かたじけない」が使われていた。

上方は婉曲表現が強いため
やがて「ありがとう」でも「かたじけない」でもない言葉が発生する。
重ね重ねの意味を持つ「だんだん」や、大いにの意味の「おおきに」だ。
(「おおきに」については別に述べたい)
「だんだんありがとう」のありがとうがとれて「だんだん」に
「おおきにありがとう」が「おおきに」になっていくのは
直接的な表現を恥じる西の文化らしいといえる。
実のところ、かたじけないとありがたいは微妙に意味が違うのだが
「だんだん」と「おおきに」だけならば
その言葉を受け取る人が都合よく考えてくれれば済む。

ところで、長野県の方言に
「おかたしけ」「おかたしけない」というのがある。

むづかしい語源の話を引っ張り出してみたら
カ=行為を
タ=為すべく
シ=取り組んでくれたので
ケ=良い変化がありました
というようなことらしい。
つまり、あなたは私を助けてくれましたという言葉が
「カタシケ」であり
それがお礼の意味を持ち、「お」やら「ない」がひっついた
ということらしいのだ。

ありがとうひとつをとってもややこしい。



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