2011年02月26日

その頃の馬

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前漢の武帝が大苑の血汗馬を求めたころ大陸にはどんな馬がいたのだろうか。

まずモンゴル馬である。
モンゴル馬はずんぐりしている。銅が太くて短い。首も短い。
顔が大きい。
しかし見かけと違って賢いというし、タフで勇敢だった。
モンゴルの騎馬遊牧民にとっては家族同様であり
移動手段としても戦いの相棒としてもなくてはならないパートナーだった。
ジンギスカンが乗ったのもこの馬だ。

そのモンゴル馬を羨んだのが漢の武帝だった。
匈奴と戦って勝てないのは馬の違いではないか…
どうやらそんなことを考えたらしい。
その当時の中国の馬がどんなだったかわからないが
日本の在来馬がどうやってもたらされたかについてのある説によると
小型馬が中国の四川、雲南、華南あたりから沖縄を経由して九州へ
中型馬はモンゴルから朝鮮半島を経由してということになっている。
これからすると、どうやら中国馬はモンゴル馬より貧弱だったようなのだ。

さて、大陸一の名馬を産する大苑の北の西には鳥孫(うそん)という国があった。
鳥孫も騎馬民族の国で、ここから武帝に贈られた馬も
たくましく駿足の名馬であったので、武帝は喜んで鳥孫の馬を天馬と呼んだ。

その後、武帝は大苑から汗血馬を得、これを天馬にして
鳥孫の馬は(位を下げて)西極馬と呼ぶようになったという。



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タグ:汗血馬
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2011年02月12日

武帝と馬

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武帝は紀元前二世紀の人で前漢の七代めの皇帝だが
この人は匈奴を攻めるために遥か西の大月氏のもとへ同盟の使者を派遣した。
同盟は失敗に終ったが
それまでよく知られていなかった大陸の西の情勢が
これによってあきらかになる。
大月氏の国はいまでいうサマルカンドのあたりであって
東西交易の拠点でもあった。

さて、武帝の使者張騫は100人あまりの外交使節団を率いて西へ向かったが
あっっという間に匈奴に捕えられ10年の歳月を送る(匈奴の妻まで娶っている)
10年めにやっと脱出し、大苑国(いまのフェルガナ盆地)に至り
大苑の世話を受けながらキルギスを抜けて大月氏国へたどりついたのだった。

大月氏との同盟はならなかったが、使者の張騫は13年めに帰国すると
耳寄りな情報を武帝に伝えた。
「大苑では汗血馬という名馬を産す」という情報だった。

武帝は天馬の子孫と伝えられる汗血馬を欲し
たくさんの黄金と金でつくった馬を使者とともに大苑に送ったが、
よもやここまで武帝が攻めて来るまいとみくびった大苑の王によって
使者は殺されてしまった。
ここにきて武帝は怒り、大苑討伐に乗り出した。
104年の第一次大苑討伐隊は敗退し、ますます怒った武帝によって
102年、第二次大討伐隊が送られる。
第二次討伐隊はよく戦い、城を取り囲み水源を絶ちさらに外城を壊して
敵の勇将を捕虜にした。
ことここに至って、大苑の城の内部では貴族たちが王を殺し
その首と汗血馬を差し出した。

汗血馬は背が高く、首と足がすらりと長く美しかった。しかも駿足で、
これを手に入れることは当時としては戦闘機を手に入れるのと同じだった。
武帝はこうして手に入れた汗血馬を「天馬」として喜び
やがて血汗馬は権力の象徴にもなっていった。



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