2011年01月24日

縄文式鍋ものの中身

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世界最古の土器だという日本の縄文式土器の時代に
当時の人々がなにを食べていたのかを考えてみる。

ヨーロッパに較べると多彩な肉類はなかったと思われる。
トナカイのように群れで移動する獣もいない。
鹿はいる。猪もいる。うまく仕留められれば熊もいる。
秋になれば森ではドングリを拾える。クルミ、栗、栃の実。
それから山芋にキノコに山ゴボウ。
野菜は我々の考える野菜ではなくアクの強い山菜だが
食料にはなる。
七草粥に入れるようなものはすべて食べていただろう。

川や海では魚と貝。海草もある。
海岸線近くの貝塚ではハマグリや牡蠣などの貝殻に混じって
鯛やスズキの骨も発見される。クジラやイルカの骨も一緒に。

これだけ多彩な食物があると
現代人でも鍋料理をつくりたくなる。
縄文の遺跡からは木の実を粉にして猪や鹿の肉と油を練り込んだものが
炭化した状態で見つかっている。
ここで想像するのは、肉と魚と貝にドングリの団子入りの縄文鍋だ。
ひとつひとつの材料は少なくてもかまわない。
土器によって複数の食材を同時に煮炊きできるということは
一種類では足りない食材を集めて
豊かな量の食べ物を作ることができることなのだから。

そして、その最古の鍋ものからはじめてのスープが生まれたはずだ。



Voice:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/ 03-3478-3780 MMP
Tokyo Copywriters' Street 2010年12月
タグ:スープ
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2011年01月17日

はじめてのスープ




はじめてのスープ

人類が火を使うようになったのはいつの頃か。
この問いにまだ確かな答えはない。
現在発見されている痕跡としてはアフリカのものがいちばん古く
南アフリカのスワルトクランス洞窟では
160万年前の「火の痕跡」があるのだという。
この時代は洪積世と呼ばれ、ホモ・エレクトスと呼ばれる人類がいた。

火は闇と照らし、また野獣を遠ざける役割もあったが
同時に「調理」にも使うことができた。
しかしこの時代にはまだ土器がない。
調理といっても単に肉を炙ったり、
何かの葉にくるんで蒸し焼きにする程度だったと思われる。

土器の発明は2万~1万8千年前だといわれる。
それは最終氷河期の終わり頃で、最初の土器は東アジアで生まれ
日本列島では1万6千年ほど前から土器作りがはじまったとされる。

土器の発明によって、
人は異なる食べ物を同時に煮炊きできるようになった。
たとえば単純に考えて、ここに肉と栗と野菜があったとする。
火があって土器がなければ、肉は肉で焼き、栗は栗で焼く。
野菜は焼くことに適していないので生で食べるしかない。
当時の野菜はアクも強く、おそらく生で食べるのはしんどかったと思う。
しかし土器があれば、肉も木の実も野菜も一緒に煮ることができる。
煮ることによってアクも抜けるし柔らかくもなる。
1万6千年前の日本でいえば、縄文式鍋ものがはじまったわけなのだ。

その汁を飲むこと、つまりスープはここから始まったと思われる。
縄文式鍋ものの中身

世界最古の土器だという日本の縄文式土器の時代に
当時の人々がなにを食べていたのかを考えてみる。

ヨーロッパに較べると多彩な肉類はなかったと思われる。
トナカイのように群れで移動する獣もいない。
鹿はいる。猪もいる。うまく仕留められれば熊もいる。
秋になれば森ではドングリを拾える。クルミ、栗、栃の実。
それから山芋にキノコに山ゴボウ。
野菜は我々の考える野菜ではなくアクの強い山菜だが
食料にはなる。
七草粥に入れるようなものはすべて食べていただろう。

川や海では魚と貝。海草もある。
海岸線近くの貝塚ではハマグリや牡蠣などの貝殻に混じって
鯛やスズキの骨も発見される。クジラやイルカの骨も一緒に。

これだけ多彩な食物があると
現代人でも鍋料理をつくりたくなる。
縄文の遺跡からは木の実を粉にして猪や鹿の肉と油を練り込んだものが
炭化した状態で見つかっている。
ここで想像するのは、肉と魚と貝にドングリの団子入りの縄文鍋だ。
ひとつひとつの材料は少なくてもかまわない。
土器によって複数の食材を同時に煮炊きできるということは
一種類では足りない食材を集めて
豊かな量の食べ物を作ることができることなのだから。

そして、その最古の鍋ものからはじめてのスープが生まれたはずだ。



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2011年01月03日

森本一房くんの子孫

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森本一房くんの子孫については実はよくわかっていない。
一房くんが仕えた松浦家の殿さま松浦静山が1821年から
エンエン20年にわたって書いている随筆「甲子夜話」によると
「今子孫吾中にあり」と書いてあり、なおかつ
一房くんが書き記したアンコールワットの図面の模写が子孫に伝えられているとも
書いてあるので、少なくともその頃までは子孫が平戸藩にいたようなのだ。

一房くんがアンコールワットに落書きをしたのが1632年。
それから子孫は200年かそこいらは平戸藩にお世話になっていたのだし
そこまで世話になったのなら
幕末まできっちり平戸藩にいたのだろうと思うのだが
どうにも記録をさがせない。

一方お兄ちゃんの一友くんの子孫は
明治維新の頃には一久くんからかぞえて七代目の儀十郎がいた。
石高も歴代変わっておらず150石のままだ。
細川家侍帖に従って代々の名前を書き出すとこんな風になる。

1、四郎兵衛(藤太昌勝)*この人が一友くんだ。
2、新兵衛  乃美市右衛門組・御天守奉行 百五十石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    3、儀左衛門(四郎兵衛)
    
4、儀大夫(儀左衛門・昌栄)*森本一瑞と号し軍学師範だった。
5、藤太   新御屋形御小姓役 百五十石
    
6、新左衛門(儀大夫・喜三左衛門)
7、儀十郎

お兄ちゃんや叔父さんの家系ははっきりしているのに
一房くんの子孫はどこへ隠れてしまったのだろう。
どこかで「まあ、いいか」なんて言ってるのか??


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Tokyo Copywriters' Street 10年11月

タグ:森本一房
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